教えのやさしい解説

大白法 512号
 
迹面本裏・本面迹裏(しゃくめんほんり・ほんめんしゃくり)
「迹面本裏」とは、日蓮大聖人が『観心本尊抄』に、
 「像法(ぞうぼう)の中末(ちゅうまつ)に観音・薬王、南岳・天台等と示現(じげん)し出現して、迹門を以て面(おもて)と為(な)し本門を以て裏(うら)と為して、百界千如(せんにょ)、一念三千其(そ)の義を尽くせり。但(ただ)理具(りぐ)を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未(いま)だ広く之れを行ぜず」(御書 六六〇n)
と説かれているように、法華経の迹門を面とし、本門を裏として一念三千を説いた天台大師の熟脱(じゅくだつ)の化導(けどう)をいいます。
 『十章抄』の、
 「一念三千の出処(しゅっしょ)は略開三(りゃっかいさん)の十如実相なれども義分(ぎぶん)は本門に限る」(同 四六六n)
との御文のように、天台は、迹門の十界互具・百界千如の理のみでは一念三千の義を成(じょう)ずることができないために、本門の義(本因・本果・本国土)を裏に用いて一念三千を説き明かしました。
 すなわち、薬王の後身(ごしん)・天台は、法華経迹門の会座(えざ)におい迹化(しゃっけ)の大衆を代表して釈尊から滅後弘通(ぐずう)の付嘱を受け、さらに本門『嘱累品(ぞくるいほん)』において法華一経を付嘱されました。しかし、この本門は在世(ざいせ)及び正像二千年の釈尊有縁(うえん)の衆生のための観心であると共に、滅後末法弘通の上における本門の正意は、むしろ本化(ほんげ)地涌(じゆ)の菩薩への付嘱にこそあります。
 よって天台は、自らへの付嘱の分限にもとづき、迹門を面とし、本門を裏に用いて、己心(こしん)の妙理を観照(かんしょう)する理の一念三千を説き、熟脱の化導を行ぜられたのです。
 これに対し「本面迹裏」とは、文底(もんてい)下種(げしゅ)独一本門・事の一念三千を面とし、文上の本迹事理の一念三千を束ねて迹とし裏として破折する日蓮大聖人の下種の化導をいいます。
 先に述べた「迹面本裏」という熟脱の法華経本迹二門の事理の一念三千は、『本尊抄』に、
 「但理具を論じて」(同 六六〇n)
と仰せのように、末法においては迹中の本迹、理上の法相(ほっそう)であり即身成仏の大法とはなりません。
 『御義口伝(おんぎくでん)』に、
 「彼は迹表本裏、此は本面迹裏なり。然(しか)りと雖(いえど)も而(しか)も当品は末法の要法に非ざるか。其の故は此の品は在世の脱益なり。題目の五字計り当今(とうこん)の下種なり。然れば在世は脱益、滅後は下種なり。仍って下種を以て末法の詮(せん)と為す」(同 一七六六n)
と説かれているように、大聖人は「迹面本裏」の法華経を脱益仏法と決判され、末法の衆生は本化地涌上行の再誕(さいたん)、本仏(ほんぶつ)日蓮大聖人が弘められた、本門の文底に秘沈する下種の妙法によってのみ即身成仏することができると明かされています。
 その本門の文底に秘沈された下種の妙法の実体は、大聖人が顕された人法一箇の御本尊です。私たちは、本門の本尊を受持し、余念(よねん)なく唱題することによってのみ即身成仏の大利益を得ることができるのです。